泉州、こんなオモロイとこは無い!

「楽しいことしかしたくない!」自称“遊び人”は、これ人生の達人。
そしてわが泉州の看板娘ならぬ、いわば看板オヤジ。「大和川から南に、知らん道は無い」というぐらいあの峠もこの路地もアシでたしかめて、心躍らす日々。
2Bの鉛筆と二人三脚、「超アナログ編集長」は今日もお地蔵さんを探しにどこかへブラリ――
ネットワーク作りの達人!
三国ヶ丘高校のPTA幹事に担がれ、町内会でもまとめ役。
我が子の学校でももちろんPTA会長・・・とにかく“地”に根付いたネットワークは、ビックリするほど。
大学の頃から周りを巻き込み、オモシロ企画を考えるのはお手のもの。学祭では一晩で演劇の脚本を書き上げ、当時人気の岡林信康を舞台に引っぱり上げ、さらに自身のファンクラブまであった・・・というからちょっとしたアイドル? 「いや~、そこで燃え尽きたんですな。そっからはもう“ご隠居”さん(笑)」
結婚しても親になっても、ますます新しいネットワークを次々作っては人生を謳歌していたある日、
ふと思う。「40歳になってなんか誇れるものが僕にあるんやろか・・・」
「そや、昔からお年寄りの話を聞いて書きとめるのが好きやった。これや!」
小・中学校のころから自転車でブラッと田舎へ出かけ、おじいさんに色々教えてもらうのが好きな、
ちょい変わったコだった。泉州の文化を大事に残したい、伝えたい・・・その想いはどんどん深くなる。
いっちばん泉州を知ってる人間になったろ!
そんなある日転機が。PTAの集まりで指摘された「文化は北高南低や」のひとこと。
「北の文化は素晴らしくて、南はアカンてどういうことや!芸術や文化なんて比べて点数つけるもんやない。泉州には泉州の風土と遺産があるやないか!」
ガマンできなくなった桧本さん、メンバー23人とついに「堺 泉州」を発刊することに。とはいえ刷った3000部をどうやって売ろかと初めは四苦八苦。「完売の時もあれば、売れ残りまくる時も。でもまあエエや・・・と適当にやってきたからなんとか続いてるんですな」
ここでも応援団が多いのは彼の人柄だ。有名な先生も原稿はみ~んなタダ。
「もうけは無いけど、なんとか損もない。気楽でいいなあ」とニッコリ。
「完璧な歴史の雑誌作ろうとか、そんなことは全然思ってないんです。僕らが泉州のオモシロさを発信することで、これからの若い世代のタタキ台になれたら。山城を訪れれば戦国時代の貧しい武将たちに思いを馳せる。お地蔵さんを見れば、みな何を思って拝んだんやろとジーン。編集を始めてから、人生をていねいに味わってるような気がします」
今年で11年目
2007/03/07 取材・文/花井奈穂子 撮影/小田原大輔