私的・すてき人

門付けの旅芸人たちが、生きるために弾いた津軽三味線。その魂を伝え続けたい

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竹山流津軽三味線 栄山会師範

たかはし えいすい

高橋 栄水さん [大阪府大阪市在住]

公式サイト: http://y-eisui.com/

プロフィール

1971年 奈良県出身 中学から堺へ
1990年 泉北高校卒業後、神戸商船大学(現神戸大学海事科学部)入学
2001年 竹山流津軽三味線・高橋栄山に弟子入り
2004年 栄水を襲名 関西を中心に演奏活動を行いながら、教室も主宰

路上で彼のバチが音を奏で始めると、一瞬で張りつめたように空気が変わる。
 
三味線、ゴザ、そして投げ銭を入れてもらうお椀――この三種の神器は、彼の路上ライブになくてはならないもの。
かつて盲目の旅芸人たちが、生きるために必死の思いで三味線を弾いていた…そんな時代にタイムスリップしたかのような、独特の雰囲気と迫力。
 
「津軽三味線を全国に広めた初代・高橋竹山先生もそうだったように、彼らは門付けといって、食べ物やお金をもらうために民家の軒先で弾いていた。そこには障がい者への差別があっただろうし、悔しさや貧しさと闘いながら生まれたのが、この音楽だと思うんです。津軽三味線の原点を忘れずにいたいし、だからこそ伝わってくる深いものがある…」
 
ギターを手に、ちょっとカッコいいストリートライブを繰り広げる若者たちはたくさんいる。だが暑い夏の日も、雪が舞いそうな凍える日も、地べたにゴザ一枚ひいてひとり三味線を弾き続ける――そんな彼にしかできない信念のライブは、もう五百回を超えるのだという。

ギターから三味線へ

三味線の道を目指すきっかけになったのが、なんとフォーク歌手の吉田拓郎だったというから面白い。
 
「浪人中に深夜ラジオから流れてきたのが、吉田拓郎の曲だったんです。世代は違うんやけど、なんかアコースティックギターの音にグッときてしまって」
 
高校時代は陸上部、音楽とはなんの接点もなかった彼が、ここから一気にギターの魅力に取りつかれていく。
ボブ・ディラン、ローリングストーンズ…ロックからブルース、ゴスペルまで、様々なジャンルの曲に挑戦、エレキギターも弾き始める。
「でもまったくの我流なんで、うまくニュアンスが出せない。すごく、もがいてましたね。でも教室で習うのは、なんか違うと…」
 
普通、大学を卒業すると同時に「夢の時間」は終わり、生きるための現実にシフトしていくもの。だが、彼はそう簡単には夢をあきらめなかった。
 
「僕今まで、一回も就職したことないんですよ(笑)大学出てからは、ずっとバイトで食いつないできました。不安?う~ん、それがそんなに無かったんですよね」
だが、思いとは裏腹にどこまでやっても、なかなか前へ進めない…
 
「もうどうしていいかわからなくて、ちょっと日本の音楽も聴いてみようか…」と、手にしたのがなんと民謡のCDだった。
そのなかのひとつ「津軽じょんがら節」を聴いた時「もうコレだ!って思ったんです。この三味線の音、スゴイなって。なんか魂を感じてしまった…」
 
いったん思い込んだら、もう止まらない。
さらに様々な名人の弾く「津軽三味線」を聴き比べ、「この人や!」とひらめいたのが、初代・高橋竹山氏だった。
 
竹山といえば、まさに東北、北海道で門付けして歩く旅芸人からスタートし、やがてレコードを出し、ライブを開き、津軽三味線を世に広めた第一人者。さらにその人生は北島三郎の「風雪ながれ旅」に歌われ、映画「竹山ひとり旅」にもなったほどの人物だ。
 
いてもたってもいられず心は走り出したが、なにせ肝心なものが無い。そう、三味線を手に入れなくては話にならない…。

三味線で生きていく覚悟を決めた

「三味線屋さんなんてどこにあるのか、どんな楽器なんか、値段はどれくらいなのか全然わからなくて」
 
とりあえず楽器店を回って歩くが、安くても15~20万円くらいはすると知って「すぐに買うのは無理や…」とガッカリ。
 
しばらくは、ギターの弦を三本にしたり、三味線の糸だけ買ってきてギターに張ったり…と悪戦苦闘。やっと太棹の三味線を手にいれたのは、それから一年後、もう29才になろうかという頃だった。
 
いよいよ三味線にのめり込んでいくが、ここでもまたまた我流全開。二代目高橋竹山氏のコンサートを見に行き、なんとか盗もうとするも「手が早すぎて、全然わからへん(笑)」
 
1年半頑張ったが、バチの動かし方、左手の使い方…何から何までひとりではわからない事ばかり。ついに「なにがあっても独学」というこだわりを捨て、神戸にある初代・竹山氏の直弟子である高橋栄山氏のもとに通い始めたのだ。
 
「もうワラをもすがる思いでした。先生にまずいわれたのが、黙って10年やりなさいということ。そうすれば三味線がわかってくる、20年やれば落ち着いてくると」
 
2年前には、長年続けてきたバイク便のバイトも辞めて、三味線一本の毎日になった。
「三味線弾きとしてやっていく覚悟をしました。もちろん生活はキツくなるけど、これで生きていくって決めたので…」
 
ライブや仕事の無い日は、ほとんど路上で弾く。それも泉北高速沿線から難波、岸和田、千里…となかなかの神出鬼没ぶり。「いい曲ほど地味だったりする」ので、たたきつけるような豪快なバチさばきを織り交ぜながら「若い世代にいかに聞かせるか」がテーマだという。
観客のなかには“追っかけ”のオジサンもいたりして、いろんな交流ができるのも楽しみのひとつ。
 
「古くから伝わってきた、いいもの、いい曲を残していきたいんです。伝統が消えるのなんてスグです。けどいったん無くなったら、それを復活させるのにはすごい時間がかかる。だから昔の人の魂っていうか、そういうのを伝え続けたい」

<2014/6/14 取材・文/花井奈穂子 写真/ 小田原大輔>