私的・すてき人

本質にどこまで迫れるか、それがすべて

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水墨画家 高野山画僧

ふじわら しげお

藤原 重夫(僧名 祐寛)さん [大阪府和泉市在住]

公式サイト:

プロフィール

1940年 和泉市出身 
1990年 自営業をやめ画家として筆一本で生きることを決意。文部科学大臣表彰 作家賞 文化賞 院賞ほか多数受賞。現在 京都墨彩画壇副理事長、和泉市文化財保護委員ほかを歴任。作品は高野山山内寺院、大峯山、松尾寺など全国寺院に収蔵されている。

「生命、愛、SF、アクション、犯罪……マンガのなかにはすべてがある。幼いころ夢中で読み、描いたマンガこそが私の原点なんです」

ほっこりとしたお地蔵さまがあると思えば、雄大な自然を切り取った荒々しい作品や、ユーモアたっぷりのコミカルな掛け軸……と、絵ごとにガラリ変わるバラエティ豊かな作風。

作品も生き方も、自分の世界だけにヒタる芸術家とはひと味もふた味も違う。
納得がいかないとトコトン調べて役所相手に物申す反骨精神、一方で小学校で子どもたちに絵の楽しさを伝授したりと、人として放つベクトルの多さが彼の魅力だ。

「マンガは縦横無尽、なんでもアリや。でもなんでも描くには社会や時代とつながってないと無理。そこからスタートしたからこそ今の私があるんです」

すべて独学 だから面白い

ノラクロ、手塚治虫、新宝島……もう読むのも描くのも大好きな、まさに“マンガ少年”だった。
「5つの時にはもう漫画家になる、プロになる!って決めてた。それぐらい描くことが好きやったんです」

小学校では友だちに頼まれて、当時のスター「アラカン」の似顔絵を描きまくり、クラスからは当然のこと一目置かれる人気者だった。

だが当時「漫画家になりたい」なんて夢を追う気ままは許されるものではなく、中学を卒業すると生活するためにサラリーマンに。
「それでも当時流行っていた映画『笛吹童子』の看板を見ては描きたいなあと思ったり、友達といっしょに作品を新聞社に持ち込んだこともあったよ」

才能はもちろんだが、努力の人でもある。
働きながらも描くことだけはあきらめず、日本画、水墨画…とさまざまなジャンルに挑戦し続けたが、それらはすべて独学。

「たとえば昔は絵具に肌色とか空色とかあったでしょう?子どもは何も考えずにその通り塗るけど、それっておかしいでしょ。肌の色にもいろんな色がある、空だって青いばっかりじゃない。国によっても季節によっても時間によっても全然違う。それを押し付ける教育が間違ってるんです」

いつか蕪村のような絵を

働きながら作品を描きためていたある日、友人に「亡くなった父の絵を描いて」と頼まれる。その絵を供養のために金剛峯寺に奉納したのをきっかけに、高野山側から仏画などを描いてほしいという依頼が来るようになったのだ。

なかでも「高野山教報」に、なんと10年にわたって「観光だけでは気づかないような、高野山の魅力を伝えたい」と描き続けたスケッチ画は評判を呼び、「新・高野百景」として出版されることになる。さらにNHKの手で、そのスケッチを道しるべに高野山の四季を追う「百の絵に百のいのちあり」という番組までが制作された。

やがて真言宗の教えに共感した自身も得度、祐寛という僧名をもらうことになる。

「いちばん大事なのは、本質にどこまで迫れるかということです。例えば桜を描くとき、その向こうにある“滅び”だとか“命のいとおしさ”をどこまで描けるか……すべてのものには本質がある。それを見逃しちゃいけない」

例えばチャリティに出品する時は、入札してもらってそれを障害のある人に役立ててもらうことが“本質”。だから「必ず落札してもらえる、売れる絵を徹底して描きます。被災地に贈るものなら必ず笑ってもらえる絵を。それが私にとって大事なこと」

自分の趣向にしがみつくことなく、その時々、TPOに合わせてなんでも描いてゆける…それこそがマンガで培った彼の手腕に他ならない。

多くの賞や名誉を得てなお、まだまだやりたいことがある。
「晩年の与謝蕪村のような絵が描きたいんです。ほんとに簡潔な筆なのに面白味がある。年をとらないと描けない味わいのある絵をね」

2011/08/06 取材・文/花井奈穂子 写真/ 小田原大輔