私的・すてき人

農業が変われば、日本が変わる。

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農業生産法人「然菜」代表

ゆきまる たかし

雪丸 高志さん [大阪府堺市在住]

公式サイト: http://u-zensai.com/index.html

プロフィール

1957年 堺市出身
1974年 中学卒業後、2年間のフリーター生活を経て建築業界へ
2001年 有機農業に目覚め、生産法人「然菜」をスタート 
現在、国交省の地域の元気回復助成事業にも参加。29年修業を積んだ修験者でもある

「闘う人」である。
農林水産省の役人を相手に、時にはJAや大阪府を相手に一歩も引かず“改革”を迫る。

「このままでは農業がダメになる・・・そう思って始めた有機農法。昔のように無農薬で安全な野菜を自給自足できる・・・そんな未来のためやったら、僕は行政とだって平気でやり合います」

だが、8年前までは文字通り“畑違い”の建築屋という道を天職だと思っていた。「そう、180度違うことやってました(笑)」
いったい何が彼を変えたのか、そしてそのアツイ思いとは・・・。

マイウェイの少年時代

「有機農業はまさに“勇気農業”!毎日雑草や虫との格闘で、ほんまに大変やし、気合いでやってるとしかいわれへん。でも日々が創意工夫の連続で、こんな野菜どやって育てるんやろとか、先が見えないのがまたオモシロイんですわ」

幼い頃から自分の感性だけを信じて、わが道をゆく「ヘンな変わったヤツでした(笑)」
なんと小学3年で、早くも教育や先生のやり方に疑問を感じ、授業さえロクに出なくなった。
「まあ独学いうか、ひたすら本ばっかり読んでた」という、かなりのハミ出しぶり。

中学になっても相変らず学校に価値を見出せず、卒業はしたものの皆と同じコースを歩く気にはならない。結局バイトをしながら旅に出たり・・・と、人よりひと足早く青春の光と影をさまよった。
「農業体験に来る若いコたちにもいうんですよ。悩んだら“三年寝太郎”でいいって。いつか次のことを考えられる時が来たら、立ち上がったらいい。ある日突然、ポン!てトンネルから抜けられるんやから」

2年間さまよい、とにかく何かから抜け出した彼は、建設業界で見習いとして働き始める。それから20数年、建築家としてだけ生きてきた彼に思いがけず転機が訪れたのは、中国でのこと。

「出張先の上海で有機野菜を見つけたんです。それが他の野菜と比べものにならんほど高い。へぇ~!って思って自分もプランターでチンゲンサイを作ってみたんですよ。今まで仕事がら何かを壊すことはあっても、生産するなんてしたこと無かった。でもやってみたら、なんか育てるって面白いなあと・・・」

新しい世代にバトンを渡すため

だが農について調べれば調べるほど、化学肥料と農薬に依存している現実が浮かび上がってくる。
「土なんかいじった事も無いし、園芸なんて嫌いやったんですよ。そやのに気がついたら、安全で体にも地球にも優しい野菜を僕が作ったろやないか・・・みたいになってて(笑)」

鉢ヶ峯や河内長野にある畑には人参、ルッコラ、ほうれん草・・・と今でこそみずみずしい野菜たちがいっぱいに並んでいるが、当時思い切り“初心者マーク”だった彼にとってはすべてが手探り。2004年には農水省の有機JAS認定も取得した。

さらに自然にこだわった農法は、安全性も味もバツグンな代わり、作り手の苦労はハンパではない。肥料ひとつとっても、家畜の糞からできる堆肥さえ使わず、雑草や野菜の残りかすだけで成長を促す。家畜のエサに含まれた硝酸チッソが大量に残留し、それが人の体内で発ガン性物質を生む危険性が高いからだ。
害虫を「唐辛子入り焼酎」で撃退したりと、「毎日が実験!」のような日々が続く。

去年からは農水省が行っている「巧みの技事業」にも選ばれ、有機の担い手を育成するために農業体験希望者を募って指導したり、研修会を開く。さらに障害者の作業所にも働きかけ、一緒に野菜を育て収穫する。
「土に触れることで感性が呼び覚まされるんです。知的障害の子が笑うようになるし、変わっていく・・・野菜を育てることで人も育つんやなあと」

「もっといえば、農が変われば国が変わる。ムダをなくすというなら、事業仕分け云々より余ってる農地にもっと米を作らせて自給率を上げるべき。そうすれば国が豊かになるし、海外にも食料支援ができるでしょ。有機農業は大変、でもそれを乗り越えて農家の意識を変えていかんと先へは進めない。これからは仲間をドンドン増やして、技術をマニュアル化していきたいんです。胸を張って新しい世代にバトンを渡せるように・・・」

2009/11/24 取材・文/花井奈穂子 写真/ 小田原大輔