私的・すてき人

生涯、一(いち)プロデューサー

File.039

「SAYAKAホール」理事

とがい じょうじ

栂井 丈治さん [大阪府堺市在住]

公式サイト:

プロフィール

1933年 堺市出身 同志社大学文学部卒
1958年 関西テレビ一期生として入社 「パンチDEデート」などヒット番組を手がける
2004年 「SAYAKAホール」理事に就任

「モノ造り、これが最高に好きなんやね!」
元関テレの名物プロデューサーは今、大阪狭山市「SAYAKAホール」のプロデュースという大役を担い“改革”に取り組む。一方でミュージカルの演出を手がけたり、50歳以上のオジサンを集めて「ストレイパパーズ(迷えるお父さんたち)」というコーラスグループを立ち上げたりと、かつてTV界に「視聴者参加」という新風を吹き込んだ彼のアイデアと企画力は今も変わらない。
TVという箱から“地域”へ――スタンスは変わっても「モノ造り」は彼の人生そのものだ。

「パンチDEデート」生みの親

「予算はたった80万円。だったら素人を使えばいい」
当時一方的に見る側だった“素人”を、TVの主役へと引っぱり上げることを思いついたアイデアマンが栂井さん。
視聴率のとれない深夜ワクに出す金は無い……その現実を逆手にとって彼は「公開お見合い」というアイデアで勝負をかける。

深夜のワンコーナーだったにも関わらず、この企画は若者の間で大ヒット。翌年の1973年からは30分番組「パンチDEデート」として独立。司会の西川きよしと桂三枝の「ごたいめ~ん!」は流行語になるほどの人気番組となった。その後「プロポーズ大作戦」など、後を追うように関西発のお見合いバラエティ番組が次々登場、一時は社会現象にまでなっていく。
ちなみに「渡された郵便番号で行き先を決めてしまう」というユニークさで、かつて人気を呼んだ旅番組「ふるさとジップ探偵団」も彼の作品のひとつ。その後も宝塚歌劇のDVDや映像のコーディネート、オペラの舞台演出……と「いつもモノを作る現場にいたい」という熱い思いは、テレビ局というフィールドを卒業してもずっと彼の“原点”になる。

SAYAKA再生へ

彼が退職して第二の人生を歩んでいたその頃、地元泉州の狭山では、平成6年に“市の文化拠点”して発進したはずの「SAYAKAホール」が税収の激減により窮地に立っていた。
ホール全体をプロデュースする人間がいない、さらにお役所仕事ゆえの危機感の無さ……。

と、そこへまるで「SAYAKA」が栂井さんを呼んだかのように、公の施設を民間委託できる「指定管理者制度」の導入が決まる。
ホールのオープン当初から役員として名を連ねていた彼に、当然のように白羽の矢はあたり“再生”の大役を任されることに。「プロデュースは得意分野、力になれたら!と引き受けてしまったんやけど、これが大変で…」と苦笑い。

「どうすればお客が来てくれるのか、稼働率が上がるのか」それが最大のテーマだ。
まず子どもが来ない。学校に見学を誘っても色よい返事はもらえない。「子どもが来ない、ってことはその子が大人になっても来ないってこと。どうやったら若い人たちに利用してもらえるのか。音楽や演劇のコンテストを開いたり、参加してもらえるアプローチをドンドンしていかんと」と高い“敷居”を取り払う作業からのスタートだ。
さらにホールをドリンクも楽しめる「ライブハウス」にしたいという作戦も。「ウイークデイの夜、シリーズでジャズなんか楽しめる場所にできたら…」と持ち前のアイデアが続々。

ホールというハコを貸すだけ、という発想から「どうすれば職員みんなでモノを作っていけるのか」「みんなが来たいと思える場所にできるのか」という問いかけをしただけで、少しずつだがホールに活気が戻ってきた。
「アーティストのチョイスから舞台づくり、窓口の対応…自分たちで動かなければ何も変わらない。、そして一番大切なのは市民の力!共に参加して創造していくことが再生へのカギなんです」

「趣味のコーラスにもっと参加したいねん……」とボヤきつつも、まだまだ忙しい日々は続きそう。ドラマ「再生SAYAKA」のプロデュースぶりが楽しみだ。

2008/03/13 取材・文/花井奈穂子 撮影/小田原大輔